愛農普及会 その1

愛農普及会は、消費者団体である。拠点が吉祥寺にある。戦前建築の古い、趣がある民家である。

40年前に、おばさん(義母)によって設立された。それがなかったら、実は、kaffaは、存在してないはずだ。

おばさんは、防衛庁に勤める研究者であったが、庁内の事なかれ主義の空気、「とにかく定年まで無事にのんびり仕事して、年金生活に入ることばかりが大事な上司や同僚たちに呆れて」たと、聞いたことがある。40歳になったら、その仕事を辞めて、何かしらやりがいのあることを始めようと思っていた、と聞いた。

そして、その通りにした。

おばさんは、山形県の米沢市で生まれた。そして、父親の仕事(印刷所経営)で、南京で暮らした。戦争が終わり、父母は、地元の人たちに請われ、南京に残るつもりだったのだけど、まだ十代の義母が日本に帰ると主張し、子どもである義母が帰るんなら、仕方がない、と一家で帰国した、と義祖父から聞いた。

郷里の米沢に帰り、高校生となり、その後、東京の大学で化学を学んだ。卒業後、防衛庁に入り、自衛艦に使う塗料の研究をしていたそうだ。大学の同窓の義父と結婚し、義父の実家の庭に、自ら設計した小さな家を建て、仕事しながら、子ども4人を育てた。

その義父の実家が、今の愛農普及会の作業所であり、庭に建つ小さな家が、kaffa吉祥寺である。

おばさんは、東京に来てから、ずっと、大根だとか、白菜だとかいった普通のたべものが、おいしいと感じられず、不思議だった。

40歳になろうか、というある時、ある「みかん」に出会った。目が覚めるようだった。それが、「愛農会」という農業者の団体の会員のみかんだった。

おばさんは、そのみかんを数十ケース取り寄せ、知り合いを中心に、勝手に、普及し始めた。40年前の話だ。今のように、全国翌日配達なんて想像すらできない時代。国鉄の貨物列車。届いた時には、かなり腐っているような時代。

それがきっかけとなり、東京で、消費者団体の先駆けの活動の輪の中で、紆余曲折し、おばさん独自の「愛農普及会」を作った。今、おばさんが残した古い手書きの資料を見ると、当時、まだ生協などの共同購入の宅配すら、なかった(たぶん)時代の先駆けの人たちの名前が見える。ほとんどは、男性だ。何人かの男性と組んで活動したこともある。でも、結局、独立した。「なんか、男の人は、結局、事業になっちゃうのよね。」って言ってた。おばさんは、「主婦として」に、こだわってた。そして、味覚。おいしいこと。売れて、かつ、なんとなくそれらしくても、ダメ。

作った人のこころが伝わること。
おいしいと感じられること。

それは、当然、高度成長期の化学肥料や農薬を野放図に使い生産量を増やすことを目的とした農産物ではなかったし、有機栽培なら何でも良いわけではなかった。

今のように、オーガニック、自然食品なんてジャンルが、全ての人に知られている時代ではなかったけど、日本中の各地に、個人で、あるいは小さなグループで、そんな農業者がいたし、それを求める消費者もいた。

おばさんは、妹たちの協力のもと、自ら、生産者を訪ね、自分がおいしいと感じられる農産物を直接買い、いろんな人たちに電話して売り込み、パワステなんてない時代の2トントラックに積み、ハンドルを握り、都内に配り歩いた。

僕は、22歳前だったか、大学3年の時、縁があり、愛農普及会でバイトとして働き始め、義母に出会った。愛農普及会が創設されて10年と少しの頃だったかな。おばさんは、そうか、ちょうど今の僕くらいの歳だったんだな。タバコなんか吸ってたな。若くて、ナイーブな僕は、おばさんに出会えなければ、どうなっていたか、本当にわからない。

その頃には、愛農普及会もかなり形が整っていて、都内と埼玉の一部に、大小80グループ位の共同購入ポストがあり、毎週、月曜日と水曜日に野菜類が届き、それを注文に応じて、量り、ダンボール箱に詰め、トラック2台に積み、合計6コースの配送コースで配りながら、会員のおばさんたちに、農家や産地の話をしたり、注文以上に来ちゃった野菜を押し売り?したり、上がり込んでお茶とお菓子などご馳走になったり、ポストによっては、毎週ランチが用意されていたり、といった感じだった。今のように、とにかく急げ、みたいな宅配から考えると、信じられない時代かも知れない。

配送が終わると、義母のご飯が待っていたし、月曜、水曜には、義母の妹のおっぺさんのご飯があった。

愛農普及会スタッフになる前は、何だって食べていた。空腹が満たされればよし、みたいな。

愛農の毎日のごはん。別に特別でも何でもないのだけど、もちろん、食材は、愛農の食材。おいしかった。それが数ヶ月続いた時、ファミレスに行った。その時に初めてびっくりした。ものすごく、おいしくなかったんだよね。

僕は、今でも、ファミレスやすき家でも食べられるし、カップヌードルも時々食べる。でも、それは何と言うか、おいしいと感じられるものでもなく、作った人のこころが感じられるものでもない。滋養はないんだよね。『いのち』を養うたべものじゃない。

義母が、10数年前に書いた言葉がある。

父母から頂いた『いのち』は、まさしく天然のものです。
その『いのち』を養うたべものは、天然でなければなりません。
生きることは、天然の内に一体となることです。

作った人のこころが伝わること。
おいしいと感じられること。
あきずに使えること。

毎週金曜日は、お昼前におばさんの家(今のkaffa吉祥寺)に集合して、1週間の集金を数えて、銀行さんを待つ。お昼ご飯を食べ、電話で翌週の注文を取り、晩御飯を食べ、注文を集計して、生産者さんに発注する。終わるのは、夜中。のんびり注文の電話を待ちながら、操体してもらったり、テルミーしてもらったり、原子について教えてもらったり。

高校生の末娘さんが帰って来て、「ただいま〜」と言い、二階に消える。その子が焙煎人。当時あれほどおばさんちでご飯食べてたのに、その子が食卓に居た記憶はない。帰って来て、顔みせてそのまま二階に行って寝てたみたい。何食ってたんだろ?

今、焙煎人から聞いたんだけど、おばさん、割と早く防衛庁は辞めたみたい。愛農を始める前にも、習字の先生やってたり、そう言えば、おばさんがおいしいと思える豚肉の普及活動とか、やってたと聞いたような気がする。

以上は、僕が聞いたと思う話。事実とは微妙に違っているかも、です。

僕が愛農スタッフだったのは、出たり復帰したりで、足かけ10年弱かな。おばさんとその妹たち、そして、その時々で、若い連中が出たり入ったり。僕が入ったのも、手伝ってたS君が、オーストラリアにワーキングホリデーで一年行くから、代わりを探してるって話だったし、一緒に働いてたA君は、直後に就職して愛農から卒業し、A君に代わり、おばさんの次男、ちゅーき(現在の代表)が何度目かにスタッフ入りし、時々高橋君(ちゅーきとS君の親友で、現在の愛農を支えるスタッフ)が手伝いに入ったり、S君が帰国して復帰したら、ちゅーきは、ロンドンに行っちゃったり、僕も、インドに行く予定だったのに、S君にそそのかされてオーストラリアにワーキングホリデーなんかに行っちゃったり…。常時、若い誰かが2人くらい居て、面白かったなあ。夜には、ちゅーきや、高橋くんや、S君や、おばさんの長女の純ちゃんと遊んだり。その面々が、今や、おじさんとおばさんになり、それでも、なんだかんだ愛農に絡んでいる。

僕は、愛農とコーヒー屋の二足の草鞋だった頃もあるけど、結局、群馬に越して来て、愛農の仕事からは離れた。

おばさんとちゅーきとS君が、中心で暫くやってた。S君が独立して、高橋くんが入った。そして、おばさんが亡くなった。

愛農の仕事。扱う食材。生産者さんとの繋がり。日々の業務。地味だけど必要な雑務。配送。受注。集計。発注。会計。今は、高橋くんとちゅーきが、ほぼ2人だけで回してる。むかしのような、余裕は見えない。あの20代の頃の、笑いながらの仕事じゃない。

でも、まだ、おばさんの魂はそこにあり、それを、次の世代にも繫いでいけるはずだと思う。笑いながら、それが可能だと思う。

 

愛農普及会

 

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