屋久島の無農薬タンカン

30年位前の話。僕は、まだ若い愛農普及会のスタッフだった。おばさんは、まだ50代だった。

おばさんの同年代の友だちが、屋久島に移住しているという話を聞いていた。

ある時から、おばさんは、その屋久島の友だちと、頻繁にやりとりをしていた。

屋久島の伝統的液糖「コタギ」を復興させたい。という思いが、屋久島の友だち、今井さんにはあったのだと思う。コタギの製法が、他の古式糖の製法と、どのように違うのか?あるいは、同じなのか?おばさんは、語ってくれていたけど、今の僕には、記憶がない。

とにかく、当時、屋久島でコタギ作りは、ほぼ絶滅していたのではないか?と思う。少なくとも、屋久島に移住した今井さんの周囲にあったのは、古い、動かない機械や道具がそのまま朽ちようとしている共同の作業小屋と、そこで、暫く前までは、コタギを作っていた老人たちの話。

たぶん、話がスタートしてから、世界で愛農普及会だけで売られてる「コタギ」が製品化されるまでには、2、3年はかかっているような気がする。

コタギは、今はない。おばさんが亡くなって、押し入れから発見された3本がうちにあるだけだ。数年間は、コタギ作られてたけど。なぜだったか?機械が壊れたのか?あるいは、若い後継者がいなかったのか?

製造年月日11 5.20とある。平成11年だと思われる。最後のコタギ。今舐めてもおいしい。いろんな味がする。

その今井さんが、中心となったグループで、無農薬のタンカンが始まった。あの当時、タンカンって、ほとんど知られてなかった。僕も知らなかった。東京では国産柑橘類は、温州みかん、八朔、甘夏、夏蜜柑、伊予柑、ネーブルくらいしか流通してなかったな。その後、タンカン、文旦、清美オレンジとか、最近は、いろんな柑橘類がありますね。そう言えば、屋久島にはポンカンもあるはず。

そう、「コタギ」とほぼ同時に、放置されかかった畑のタンカンが、おいしいのに、売れなくて、もったいないからと、愛農普及会で売り始めた。みんな、びっくりしたと思う。こんなおいしい柑橘を知らなかったから。当然、売れた。

屋久島での、タンカンをめぐる猿との抗争話。想像してみて欲しい。甘くて濃いタンカンが実るけど、そこら中に猿がいる。

そして10数年で、そこら中でタンカンが売られるようになってた。今は、知らない人は少ないんじゃないかな?

愛農普及会には、今井さん繋がりで、今でも、年に一度、二度、屋久島の無農薬タンカンがあります。濃くておいしいです。

620円/kgで20kg以内なら、450円の送料らしいです。ぜひ、http://www.愛農普及会.comにアクセスしていただき、問い合わせフォームから、問い合わせ、あるいは注文してください。

Kaffa でも、来週、販売します。ぜひ、お試しください。

全宇宙の全ての「物」は。

昔、アルバイトで、中学生相手に、塾の講師をしたことがある。2年間。

国語をやりたかったのだけど、塾長に「理科と社会をやって下さい。」と言われた。

で、必死に勉強して、理科と社会を教えてた。

僕は、小中学生の頃は、勉強しなくても成績の良い子どもだった。で、高校は、運によって進学高に合格した。そこで落ちこぼれたんだけど、理科、社会は、一応長年学んでいたはずだった。

でも、いざ中学生に教えると決まったときは、愕然とした。何にも知らなかったし、何にも理解してなかった。よくあれで塾講師になろうと思ったものだ。無茶だった。

とにかく、あの2年間ほど勉強したことはないな。別に、高度な勉強じゃない。ただ、中学生の教科書を読み、理解しようとしてた。理解すれば、それを自分の言葉で語れるからだ。

教科書を読み、参考書を読み、図鑑を読み、理解しようと頑張ってた。

毎日が発見だったな。

一番驚いたのが、中学生3年?の理科の単元を勉強していて初めて気がついたことだ。

「すべての物質は原子でできている。」基本的には、「原子は、他の種類の原子に変わらない。」「原子は増えないし、減らない。」と、教科書に書いてあったし、僕もそれは知っていたはずだった。

すべての物質は原子が集まってできている。OKだ。水素原子は、生まれてから今まで水素原子だ。これからも。鉄原子もずっと鉄原子だ。炭素原子も、酸素原子も。窒素原子も。…。數十億年?

不増不減不滅。般若心経みたいだね。

ふと、気がついた。今僕の身体を構成している原子は、もう數十億年存在していて、いろんな何かの一部だった。恐竜を構成していたし、水だったし、風だったし、植物だったし、原始人だったし、ありとあらゆるものの一部だった。

僕は、この事実をそれまで知らなかったんだ。正直に言うと。40歳近くになるまで。びっくりしたよ。みんなが、なぜ平然としているのか不思議だった。

それから、大人向けの科学雑学の本とか、ニュートンとか読んで、さらにいろいろ驚いたよ。

で、結局、これ

「全宇宙の全ての物は、僅か17種類の粒子が、僅か4種類の力の作用によって集まってできている」らしいということ。

たった4種類の力。原子から僕になるためには、たったの2種類の力しか作用してない。「力」って何だろう?ものが、結びついたり、斥ぞけあったり。

4種類の力が、たった17種類の粒子に、及ぼす作用によって、それが絡み合って、全宇宙の全ての「物」が、今有るように存在し、その「物」と「力」のさらなる相互作用が「物」を変化させる。その結果、今、このような「物」として僕がここに存在し、あなたがそこに存在し、彼が、彼女が、あそこに存在し、あれやこれやがあちらこちらに存在する。

奇跡ではないだろうか?

この奇跡的な「物」として存在しながら、人間は、4種類以外の力を使う。愛し合ったり、殺し合ったり、支配したり、抵抗したり。この力は「欲」なのかな?生きようとする力?生命力?意思の力?

「生物」は、生きようとする力を生み出す「物」かも知れないね。

「人間」には、あるいは、「動物」には、その中でも特に「哺乳類」には、「生命力」の他にも、「欲」に根ざす力があるような気がする。

もはや、理科じゃないね。

今日、この記事を見て、思い出しました。この映像、よくできているんだと思うけど、もっともっと、びっくり‼️って感じで作れるような気がするんだよね。

全ての「物」の正体は「場」から生まれて「4つの力」で動く「17の粒子」であることが分かるムービー「What Is Something?」

米沢牛

昨日は、ほんとうに久しぶりに、米沢牛を食べた。

おっぺさんちに、おっぺさんの次男の達樹ファミリーと末娘の佐和子ファミリー(旦那さんは、千葉で仕事)が、おっぺさんの誕生日を祝いに来ていて、たぶん日本一おいしいイタリアンレストラン「base」の達樹&さくらシェフのパスタの夕食にkaffa家もお呼ばれされたわけ。

おっぺさんは、焙煎人の叔母。愛農普及会の創設者である「おばさん」の妹。創設当時からおばさんを手伝い、愛農普及会のスタッフだった。40年前から、10数年間。

僕が愛農普及会スタッフになった頃、たしか、おっぺさんのお腹に達樹がいた。でっかいお腹で狭いトラックの運転席に乗り込む姿が目に浮かぶ。

達樹も、佐和子も産まれる前から、愛農普及会のたべものからできていた。

産まれてから、すぐに、おっぺさんにおんぶされて、毎週、月曜日と水曜日、愛農普及会に出勤してたし、保育園にぶち込まれる前まで、愛農普及会で遊んでた。野菜が届く月曜水曜は、おっぺさんが昼飯を作って来て、狭い倉庫でコンテナを食卓にして、みんなで食べるのが日課だった。達樹も佐和子も、離乳食から、愛農のたべものだったな。

あの頃は、愛農普及会は、小平の狭い倉庫が作業所になっていて、目の前が車道、車道を渡ると小さな公園っていう立地だった。

おとなしくおんぶされてる間は、おっぺさんがおんぶしながら作業してたし、目が覚めると、おばさんが子守しながらプリントの原稿書いたり、原稿できたら、散歩しながらコピーに行ったり、時々、僕たち若いスタッフと公園で遊んだりしながら、育った。目の前の車道にヒヤヒヤしながら。

この2人は、ほんとうに愛農普及会の子どもだった。

達樹が3歳位の時、おっぺさんは、群馬で百姓になると言って、当時、愛農普及会と取引があった玉子農家の紹介で農地を買い、群馬に引っ越した。で、何年かかけて農業委員会に認可され、正式な農家になった。

おっぺ農場として、愛農普及会の生産者になったわけだ。

達樹は、中学2年まで群馬で育ち、野球にのめり込み、高校生時代は、東京の強豪校で甲子園を目指した。彼が幼い頃は、僕や義兄やS君が、愛農倉庫前の公園でキャッチボールで鍛え上げた?のだ。

甲子園は、予選決勝で敗れ、出場はできなかった。その後、どうするんかな?と思ってたら、高校卒業後、いきなりイタリアに行って、料理の修行を始めた。4、5年はいたのかな?料理修行しながら、イタリアのプロ野球リーグの外国人選手枠で、一応プロ野球選手やってたりして、驚いたな。

帰国して、イタリアで出会った、さくらさんと結婚して、さくらさんの地元の木祖村で小さなイタリアンレストランをやってる。それが、「base」、バーゼだ。日本一おいしいイタリアンレストランだと、思っている。

おばさんが生きていた頃、時々吉祥寺に来ては、おばさんと味の話してた。おばさんが亡くなって、一番悲しんだのは、たぶん、達樹だ。

「たべものの味について、ほんとうに分かり合えるのは、おばさんしか居なかった。」って言ってた。

愛農普及会は、おばさんの味覚によってできてた。僕もおばさんと長年付き合ったけど、結局、おばさんの味のストライクゾーンを理解はしてない。すごい狭いんである。それを理解してるのは、たぶん、達樹だけだろうと思う。焙煎人も、かなりおばさん的だとは思うんだけど、ゾーンの境界線がない感じ。薄らぼんやりした境界な感じかな。

そんな達樹が料理人として生きている。もう2歳の女の子の父親だ。愛農普及会の子どもが親になって、料理人である。

今や、愛農普及会にとっては、欠かすことのできないアドバイザーであり、食材を買ってくれるお客さんである。

昨日も、「秋場さんの玉ねぎは、いいよね。」って言ってた。僕も、焙煎人も、そう思って使ってたんだけど、何となくなんだよね。達樹にそう言われると、「あっ、やっぱり?そうだよね!」と嬉しくなる。自信を持って人に勧められる。愛農普及会の秋場さんの小玉玉ねぎは、最高ですよ、みなさん。

ああ、米沢牛の話なんだな。

昨日、達樹が、おっぺさんちの冷凍庫に眠ってた愛農の米沢牛のモモブロックと、肩ローススライスを、囲炉裏の炭火で焼いてくれた。

おばさんが米沢出身で、米沢の佐藤さんの米沢牛を40年前から、扱ってた。僕は、愛農普及会を知らなければ、米沢牛なんて知らなかったと思う。今でこそ、米沢牛は、ブランドとして確立されてるけど、30年前は、一般的ではなかったからね。

僕が愛農やってた頃は、愛農では、米沢牛を毎月第4週に注文とってた。切り出し1kgで1500円だったな。サーロイン300gで2000円とか。安かったなあ。

おばさんに連れられて、佐藤さんを訪ねた時、牛舎で、生まれて初めて、牛に舐められた。「ああ、これが牛タンなんだな。」と思った。生きている牛に舐められて、嬉しくなった直後、冷蔵庫を覗かせてもらったら、牛の頭がぶら下がってて、ちょっとショックだったなあ。

10年位前に、佐藤さんから、「今まで、かなみっつぁんだから、この値段で出してたけど、さすがにもう無理なんで値上げさせて。」って言われて、かなり高くなった。

それでも、一般的な米沢牛の価格と比べると、かなり安いみたい。だけど、kaffa家の家計的には、今や年に一度くらいの贅沢食材になってる。

それが、昨日、ラッキーにも食べられたわけ。達樹が囲炉裏の前に座り込み、炭火の上で、おっぺさんのネギと肉を焼いてくれ、醤油つけて食べるだけなんだけど、やはり、おいしい!

息子と娘も、それはもう、うまそうに食ってた。思わず動画撮ったんだけど、あまりにお下品なので、静止画にしました。

さっき、これ書いてる時、達樹が木祖村への帰り際、うちに寄ってくれて、コーヒー豆買ってくれたんだけど、ちょっと話をした。やはり、おばさんの話になったな。水の話もした。最近、バーゼの近所の清水牧場さんの湧き水に出会ったと。今は、秋場さんの小さい玉ねぎを弱火で、色をつけないように炒めて、白いスープにするのにハマっているそうなんだが、これをその水で作ってみると、また格段に違うんだと。うちのコーヒーもその水で淹れるとおいしいんだと。達樹だって、料理に水は重要だと知らなかったわけじゃない。だけど、ただ何と無く知ることと、五臓六腑身体ごと、存在ごと識るのとは違うだろう。たぶん、達樹の中には、水に対する新しい何かが生まれたんだろう。

水はコーヒーにとって重要。それはわかっているつもりだけど、僕にはまだまだ、深〜い認識にはなってないな。コーヒー屋としての課題のひとつだな。

達樹も日々、アップデートしてる。よりナチュラルに。よりシンプルに。

おばさん、きっと、にこにこしているだろう、天国があるとしたら。

base

愛農普及会

 

愛農普及会2

愛農普及会のwebサイトを作ってみました。まだまだコンテンツは少ないですが、よろしくお願いします。

それに先立って、愛農普及会Facebookページも作ってみたんだけど、何なんでしょうか?編集がうまくできません。たぶん、Facebook側がおかしいのだと思うんだけど、なにぶん、こちらも素人なんで、何が問題なのか、わからないことの連続で、ストレスが溜まります。

それに比べて、Word Pressは、素晴らしいです。できないことは、できないけど、それは仕方ない。ストレスが皆無。

愛農普及会、今は、宅配便利用もあるから、東京じゃない方も、お試しに、食材注文してみてね。

kaffaのオススメは、豚肉(島豚)、鶏肉。これらの肉は、まあ、高級肉なんで、値段は高いけど、安い豚や鶏の何倍もの時間と手間をかけて肥育されてるんでね。おいしいですよ。

米澤牛も、米澤牛としては安いんだろうけど、ちょっとkaffaには、年1回くらいしか手がでないけど、おいしいですよ。間違いなく。

佐渡の干し椎茸、山形県高畠の興農舎のコシヒカリも、やはり美味い。醤油、味噌、油なんかも、流行りの自然食品店みたいにあれこれ多種類あるわけじゃないんだけど、リーズナブルで、飽きなくて、おいしいと感じられる品々だと思います。

その時々で、「これはオススメ!」みたいなものもあるはずなので、お気軽に問い合わせしてみてください。

愛農普及会のwebサイト

愛農普及会 その1

愛農普及会は、消費者団体である。拠点が吉祥寺にある。戦前建築の古い、趣がある民家である。

40年前に、おばさん(義母)によって設立された。それがなかったら、実は、kaffaは、存在してないはずだ。

おばさんは、防衛庁に勤める研究者であったが、庁内の事なかれ主義の空気、「とにかく定年まで無事にのんびり仕事して、年金生活に入ることばかりが大事な上司や同僚たちに呆れて」たと、聞いたことがある。40歳になったら、その仕事を辞めて、何かしらやりがいのあることを始めようと思っていた、と聞いた。

そして、その通りにした。

おばさんは、山形県の米沢市で生まれた。そして、父親の仕事(印刷所経営)で、南京で暮らした。戦争が終わり、父母は、地元の人たちに請われ、南京に残るつもりだったのだけど、まだ十代の義母が日本に帰ると主張し、子どもである義母が帰るんなら、仕方がない、と一家で帰国した、と義祖父から聞いた。

郷里の米沢に帰り、高校生となり、その後、東京の大学で化学を学んだ。卒業後、防衛庁に入り、自衛艦に使う塗料の研究をしていたそうだ。大学の同窓の義父と結婚し、義父の実家の庭に、自ら設計した小さな家を建て、仕事しながら、子ども4人を育てた。

その義父の実家が、今の愛農普及会の作業所であり、庭に建つ小さな家が、kaffa吉祥寺である。

おばさんは、東京に来てから、ずっと、大根だとか、白菜だとかいった普通のたべものが、おいしいと感じられず、不思議だった。

40歳になろうか、というある時、ある「みかん」に出会った。目が覚めるようだった。それが、「愛農会」という農業者の団体の会員のみかんだった。

おばさんは、そのみかんを数十ケース取り寄せ、知り合いを中心に、勝手に、普及し始めた。40年前の話だ。今のように、全国翌日配達なんて想像すらできない時代。国鉄の貨物列車。届いた時には、かなり腐っているような時代。

それがきっかけとなり、東京で、消費者団体の先駆けの活動の輪の中で、紆余曲折し、おばさん独自の「愛農普及会」を作った。今、おばさんが残した古い手書きの資料を見ると、当時、まだ生協などの共同購入の宅配すら、なかった(たぶん)時代の先駆けの人たちの名前が見える。ほとんどは、男性だ。何人かの男性と組んで活動したこともある。でも、結局、独立した。「なんか、男の人は、結局、事業になっちゃうのよね。」って言ってた。おばさんは、「主婦として」に、こだわってた。そして、味覚。おいしいこと。売れて、かつ、なんとなくそれらしくても、ダメ。

作った人のこころが伝わること。
おいしいと感じられること。

それは、当然、高度成長期の化学肥料や農薬を野放図に使い生産量を増やすことを目的とした農産物ではなかったし、有機栽培なら何でも良いわけではなかった。

今のように、オーガニック、自然食品なんてジャンルが、全ての人に知られている時代ではなかったけど、日本中の各地に、個人で、あるいは小さなグループで、そんな農業者がいたし、それを求める消費者もいた。

おばさんは、妹たちの協力のもと、自ら、生産者を訪ね、自分がおいしいと感じられる農産物を直接買い、いろんな人たちに電話して売り込み、パワステなんてない時代の2トントラックに積み、ハンドルを握り、都内に配り歩いた。

僕は、22歳前だったか、大学3年の時、縁があり、愛農普及会でバイトとして働き始め、義母に出会った。愛農普及会が創設されて10年と少しの頃だったかな。おばさんは、そうか、ちょうど今の僕くらいの歳だったんだな。タバコなんか吸ってたな。若くて、ナイーブな僕は、おばさんに出会えなければ、どうなっていたか、本当にわからない。

その頃には、愛農普及会もかなり形が整っていて、都内と埼玉の一部に、大小80グループ位の共同購入ポストがあり、毎週、月曜日と水曜日に野菜類が届き、それを注文に応じて、量り、ダンボール箱に詰め、トラック2台に積み、合計6コースの配送コースで配りながら、会員のおばさんたちに、農家や産地の話をしたり、注文以上に来ちゃった野菜を押し売り?したり、上がり込んでお茶とお菓子などご馳走になったり、ポストによっては、毎週ランチが用意されていたり、といった感じだった。今のように、とにかく急げ、みたいな宅配から考えると、信じられない時代かも知れない。

配送が終わると、義母のご飯が待っていたし、月曜、水曜には、義母の妹のおっぺさんのご飯があった。

愛農普及会スタッフになる前は、何だって食べていた。空腹が満たされればよし、みたいな。

愛農の毎日のごはん。別に特別でも何でもないのだけど、もちろん、食材は、愛農の食材。おいしかった。それが数ヶ月続いた時、ファミレスに行った。その時に初めてびっくりした。ものすごく、おいしくなかったんだよね。

僕は、今でも、ファミレスやすき家でも食べられるし、カップヌードルも時々食べる。でも、それは何と言うか、おいしいと感じられるものでもなく、作った人のこころが感じられるものでもない。滋養はないんだよね。『いのち』を養うたべものじゃない。

義母が、10数年前に書いた言葉がある。

父母から頂いた『いのち』は、まさしく天然のものです。
その『いのち』を養うたべものは、天然でなければなりません。
生きることは、天然の内に一体となることです。

作った人のこころが伝わること。
おいしいと感じられること。
あきずに使えること。

毎週金曜日は、お昼前におばさんの家(今のkaffa吉祥寺)に集合して、1週間の集金を数えて、銀行さんを待つ。お昼ご飯を食べ、電話で翌週の注文を取り、晩御飯を食べ、注文を集計して、生産者さんに発注する。終わるのは、夜中。のんびり注文の電話を待ちながら、操体してもらったり、テルミーしてもらったり、原子について教えてもらったり。

高校生の末娘さんが帰って来て、「ただいま〜」と言い、二階に消える。その子が焙煎人。当時あれほどおばさんちでご飯食べてたのに、その子が食卓に居た記憶はない。帰って来て、顔みせてそのまま二階に行って寝てたみたい。何食ってたんだろ?

今、焙煎人から聞いたんだけど、おばさん、割と早く防衛庁は辞めたみたい。愛農を始める前にも、習字の先生やってたり、そう言えば、おばさんがおいしいと思える豚肉の普及活動とか、やってたと聞いたような気がする。

以上は、僕が聞いたと思う話。事実とは微妙に違っているかも、です。

僕が愛農スタッフだったのは、出たり復帰したりで、足かけ10年弱かな。おばさんとその妹たち、そして、その時々で、若い連中が出たり入ったり。僕が入ったのも、手伝ってたS君が、オーストラリアにワーキングホリデーで一年行くから、代わりを探してるって話だったし、一緒に働いてたA君は、直後に就職して愛農から卒業し、A君に代わり、おばさんの次男、ちゅーき(現在の代表)が何度目かにスタッフ入りし、時々高橋君(ちゅーきとS君の親友で、現在の愛農を支えるスタッフ)が手伝いに入ったり、S君が帰国して復帰したら、ちゅーきは、ロンドンに行っちゃったり、僕も、インドに行く予定だったのに、S君にそそのかされてオーストラリアにワーキングホリデーなんかに行っちゃったり…。常時、若い誰かが2人くらい居て、面白かったなあ。夜には、ちゅーきや、高橋くんや、S君や、おばさんの長女の純ちゃんと遊んだり。その面々が、今や、おじさんとおばさんになり、それでも、なんだかんだ愛農に絡んでいる。

僕は、愛農とコーヒー屋の二足の草鞋だった頃もあるけど、結局、群馬に越して来て、愛農の仕事からは離れた。

おばさんとちゅーきとS君が、中心で暫くやってた。S君が独立して、高橋くんが入った。そして、おばさんが亡くなった。

愛農の仕事。扱う食材。生産者さんとの繋がり。日々の業務。地味だけど必要な雑務。配送。受注。集計。発注。会計。今は、高橋くんとちゅーきが、ほぼ2人だけで回してる。むかしのような、余裕は見えない。あの20代の頃の、笑いながらの仕事じゃない。

でも、まだ、おばさんの魂はそこにあり、それを、次の世代にも繫いでいけるはずだと思う。笑いながら、それが可能だと思う。

 

愛農普及会

 

太鼓

昨日は、週に一度の、子どもたちの太鼓の練習日でした。

3か月ほど前に、友だちの娘さんがやり始めて、その友だちが、「太鼓やりたくない?」って誘ってくれて。佐渡島で家族ごと鼓童ファンになっているkaffa家も、お試し参加させて頂いていた。

「上州赤城風神太鼓」という太鼓グループが大胡にあって、毎週金曜日の夜、子どもグループが練習してる。

僕は親の勝手な希望としては、我が子が音楽家になって欲しいと思っている。別に、有名音楽家じゃなくてもいい。太鼓抱えて世界を旅する大道芸人とか、憧れるんである。音楽家じゃなくても、何らかのアーティストであれば、嬉しい。

昔、アムステルダムで、パントマイムの路上パフォーマンスで生活してる人と友だちになった。彼は、フィンランド人だが、そのパフォーマンスがあれば、世界中、行きたいところへは、どこにでも行けただろう。リッチとは言えないけど、自由で平和で、優しかった。アムステルダムには、彼の他にも、たくさんの路上アーティストがいた。みんなその日暮らしで楽しそうで、不安なんかないように思えたな。今でも、そうなのかな?世界はあの頃とは随分変わってしまったような気がするけど、僕が変わったのかな?今でも、そんな場所、そんな人たちが、その日暮らしを楽しんでいる場所があるのかな?

路上アーティストとして生活を最愛の我が子に望むのも、どーかと思うけど、まあ、僕の反面教師的存在のおかげで、たぶん、我が子はそうはならないだろう、という変な安心感があったりもする。

何の話かよくわからないな。

太鼓の話。

息子か、娘が、太鼓叩けて、将来、鼓童のメンバーになる、という親の星一徹的妄想から、その上州赤城風神太鼓に入門させたわけです。子どもたちも、やりたいと言ってたし。もしかしたら、天才かも知れないじゃん。

それで、この3ヵ月、毎週休まず、連れて行って、見学してた。見学も決して退屈ではなくて、生の太鼓の音に包まれて結構好きなんです。昔、長男のスイミングの付き添い見学は、退屈だったけど。

まあ、我が子が太鼓の天才ではないことは、わかりましたよ。

初めての日だったかな。先生の言ったようにできてない我が子を見て、思わず、しゃしゃり出て、後ろから子どもの手をとり、叩いてみたりして、先生から、「まあ、まあ、お父さんは、そんなに、のめり込まなくていいから。」とか、たしなめられたりしました。

それからは、なるべく、目立たぬように見学に徹していたんです。まあ、送り迎えだけではなく、両親が毎週欠かさず最初から最後まで居座っているのは、うちだけだから、目立つんですけど。とりあえず、おとなしく見学してた。

ひと月ほど前、大人メンバーであるお母さんから「休憩中は、太鼓叩いてみてもいいんですよ。」との言葉を笑顔で頂き、もう駄目です。休憩中に、子どものバチを奪い、大太鼓、中くらいの太鼓、叩いてみました。初めて。快感。嬉しくって。でも、子どもが凄い嫌がる。恥ずかしいらしい。なかなかバチを貸してくれない。奪って、ドンドコやると、すぐに取り返される。

そんなことを休憩中に、ここひと月くらいやってた。

そしたら、昨日。何故か子どもメンバーの出席がいつもよりかなり少なかった。インフルエンザなのかな?

先生が「お父さん、お母さん、やらない?」って声をかけてくれたんだ!たぶん、かわいそうに思ってくれたんだと思う。「いいんですか?やったあ!」もう僕は、大喜び。初めて、太鼓のたたき方を教えてもらうことになった。焙煎人も、誘ってくれた友だちも一緒にね。

バチを借り、太鼓の前に立つ。子どもたちへの教えを聞いていたから、わかってたつもりだけど、いざ立ち、構えてみると、ちょっと違うらしい。後ろで見ていたお母さんメンバーから指導が入る。

準備運動から、姿勢。構え。基本練習。基本的なリズム。ドンドコドンドコから始まって、ドンドンドコドコ、スッドンスッドン、ドドンコドンドン。ちょっとだけかなと思ってたら、これがたぶん、40分くらい。汗だくになり、息も苦しい。足腰ガタガタ。終わった時は、正直、ほっとしました。

でも、とても嬉しかった!難しさもわかった。できてるつもりでもできてない。左手が鈍い。難しさはあるけど、太鼓を自分で叩いて音を出す、みんなで同じリズムの中に在るその楽しさ。

クソ寒い中で、こんなに汗をかくんだね。終わって、見学席にもどる時、まともに歩けなかった。

あー、でも本当に楽しかった!僕も天才じゃなかったけどね。上州赤城風神太鼓、ありがとうございます!大人チームもあって、希望すれば僕自身も入門できるんだけど、子どもチームとは練習日が違う上に、かなりレベルが高そうで、やるからにはかなり練習しないとだし、練習はたぶん、ほとんどしないだろうし。
できれば、子どもチームに入って、子どもとして、遊び半分でやりたいなあ。

お試し期間は、終わり。うちの子2人は、正式にメンバーになりました。本人たち、親の期待するほどやる気はないみたいだけど、先生が、言うには、休まず通ってれば、叩けるようになるって。

子どもチームの練習にも、親子でメンバーのお母さんたちと、若い大人のお兄さんたちも参加してるんだけど、その二十歳前後のお兄さんたち、小さい頃から、風神太鼓のメンバーだそうで、昨日も、休憩中、先生と3人くらいで即興のセッションやってて、とても羨ましかった。ミュージシャンたちが、セッションして、そこに、ヒョイッと音楽で参加するなんて、世の中にこれほど羨ましいことってないです!