kaffa blog

kaffa店主と焙煎人夫婦が、コーヒーにまつわる何かを書いていきます。ツモリでしたが、焙煎人はTwitterの方が好きみたいです。出店情報とか、こいぬ情報とか焙煎中情報とかは、焙煎人のTwitterとinstagramで。

西荻ラバーズフェス


西荻ラバーズフェス初出店してきました。
群馬のコーヒー屋なのに。「愛農普及会」と合同で。愛農普及会は、昔から西荻周辺は縄張りだから、西荻ラバーズフェスに出る資格?がある。kaffaも、群馬のコーヒー屋だけど、「kaffa吉祥寺」があるし。住所は吉祥寺だけど、西荻に属してる感を半ば無理やり醸し出して出店応募。

何で西荻ラバーズフェスに出店したかったのだろう?

西荻ラバーズフェス、去年初開催で、焙煎人と僕は、特に焙煎人が、Twitterで気にしていた。「何やら西荻で面白そうなイベントがあるらしい。西荻地元のお店が出店するわりと手作りの音楽フェスが。出店したいよね。」と。

で、Twitterで注視してた。でも別のイベントに出店してたので、実際には見ていない。Twitterのタイムラインによると、成功したらしい。良かったらしい。

で、それから、焙煎人と「来年は出店申し込みしてみようね。」と狙っていた。

前にも書いたけど、フェス出店は、好きな部類の仕事です。音楽とコーヒー淹れるのは、相性がいいから。

黙々と次から次へと7時間で150杯のコーヒーを淹れる。2人で。そこに、音楽があるとないとでは、体験として大きな違いがある。

あと、お客さん。フェスのお客さんは、ハッピーだからね。どうしても。ご機嫌。

かつ、焙煎人は実は西荻ラバーズなのかも知れない。実際、いいお店がある。

「長本兄弟商会ビル?」「こけし屋」
「オーケストラ」「のらぼう」「いしはら(ラーメン)」「一年茶虎」、僕が個人的にオススメするお店。

まあ、西荻ラバーズフェス出店の目的は、商売繁盛のためだな。

無名のkaffa吉祥寺をもうちょっと何とかしたい。

さらには、「愛農普及会」も、もうちょっと何とかしたい。

まあ、要するに、kaffaと愛農普及会のセルフプロデュース企画、みたいな感じで、普段、出店なんかしない疲れきった愛農のおじさん二人と、愛農普及会長女 、純ちゃんを巻き込んでの目論見出店でした。

まあ、出て良かったです。我々の店は、うまくいったと思います。

純ちゃんは、私生活が超忙しい中、プランとパンフと準備に獅子奮迅だったし、疲れきったおじさんたちも、日々の愛農普及会業務を回しつつのことですから、そりゃあ、疲れただろうなあと思います。

kaffa も、へとへとになりました。

個人的に残念だったのは、ステージの音楽がほとんど聞こえなかったこと。コーヒー淹れながら、おかしいなあと思っていたけど、すぐに気がついた。周囲は高層マンション。住宅街。そう言えば、周辺の住民には、実行委員会のスタッフが戸別訪問してご挨拶するとか、言ってた。

でも、ミュージシャン目的の来場者には、ステージ前に充分なスペースがあったから、たぶんきちんと心地よい音が鳴っていたのだと思う。

運営は、地元の若い商店主や住民たちの実行委員会。全てにおいて、すごく親切で丁寧だった印象が残っている。

何万人単位のイベントってイベント会社に主要な部分は委託してやるもんだと思っていたけど、ボランティアを募集して、あのテント群も自分達で建てる。撤収する。周辺に気を配る。ビジネスではないイベントは、やはりすごい。西荻ラバーズなんだよ、皆さん。

kaffa としては、保健所の指導で牛乳を一切使えないという制約があったから、カプチーノ、カフェオレなし。当初は、ブラックオンリーでいこうと思っていたけど、結局、スリーブラウンさんのブラウンスイスのミルクを奥様が煮詰めた「ミルクジャム」を仕入れて、「ミルクジャムコーヒー」と「ミルクジャム紅茶」というメニューを急遽作った。コーヒーに練乳入れただけなんだけど、ただの練乳じゃないからね。なんだかよくわからないポーション使うより全然良かったと思う。

今回の企画で驚いたのは、純ちゃんの息子が素晴らしい看板を作ってくれたこと。何週間か前から「ああ、看板は斗太(息子の名前)に描かせるから。」と、事も無げに言っていた純ちゃん。

前日、我々が吉祥寺についた時点ではなかった看板。斗太は、それから日が暮れるまで庭で子犬たちの写真撮ってた。

 

夕飯時あたりから、何やら愛農の作業場から、野菜を持って来てスケッチを始めた。それから、iPadで何か見ていたから、飽きたのかと思ったら、鳥獣戯画を検索して、画像を描き写してた。それが夜中だ。我々が布団に入る頃、愛農普及会の二階に上がって、でかい白い布に描き始めると言ってた。「できるんかいな?」と思って寝た。

翌早朝、素晴らしいのができてた。後で聞くと、朝4時まで看板作ってたらしい。

朝7時に大量の荷物を、狭いブースに搬入して、お店ひろげて、斗太の看板を立てる。立ててみたら、上下のバランスが悪く、下の余白に、芝生の上でマジックで文字を挿れる斗太。

オープンして、kaffaはコーヒー淹れ続けて、愛農さんはジュース。もう少し、野菜や果物が売れてもいいんじゃないか?と思ったけど。バナナがあまり売れなかったのは意外だった。5時に終了。6時に愛農さんのトラックに荷物を積み、吉祥寺に戻って、荷物を下ろす。一応9時には片付いていた。それから、一息、ちょっとお酒飲んだりして、さて、寝るぞ〜という時、事件は起こったんだよ。

さよなら原発ぐんまアクション

昨日は、高崎市役所の麓の公園で行われた「さよなら原発ぐんまアクション」というイベント、というか、集会に、商売として出店しました。

原発事故後から、昨日で六回目。たぶん毎年出てる。

いろんな労働組合、共産党、社民党、たぶん、民進党、などの左派政党、さらには、中核派、そして、いろんな市民運動組織が関わっているみたいだ。

Kaffaは、出店だけして、会議なんかにも出たことないし、集会後のデモにも参加したことがない。申し訳ない。

個人的な知り合いも何人も関わっているし、「さよなら原発」には賛同するし、ありがたいことに出店依頼されるから、出店させてもらっている。出店料も、協力金として最低の一口千円を払うだけだし、昨日は、プラス千円のカンパを、若干渋々払ったくらいの申し訳なさ。たぶん、一銭にもならず、ボランティアで準備された方々も多いのだと思う。その方々からも、お金を頂いてコーヒーを淹れる。申し訳ありません!

僕は、反原発だ。原発は、できるだけ速やかに後始末すべきだと思う。今始めても、何十年、もしかしたら、百年以上かかるだろうし、廃棄物の管理は数万年、少なくとも数百年必要だろう。そして、その後始末という活動は、何も新しい価値を産み出さない。何兆円かかるか、わからない。もしかしたら、兆円という単位で終わるかすらわからない。

戦後数十年の繁栄のためにだ。あと数百年歴史が続いたとしたら、どのように後世に評価されるのだろう?数十年の豊かさのために、とんでもない負の遺産を残したことになる。

あるいは、科学技術の飛躍が起こり、核廃棄物処理が安価に安全に行える時が来るかも知れない。宇宙空間に安全に捨てる技術か、地球内部、マントルくらいまで深部に捨てられる技術か、原子核を安全に変換する技術か。

それができない限り、原発の経済的収支は、長期的にはマイナスであることは、確実ではないだろうか?

だが、世間常識的には、そうではないらしい。原発は安価なエネルギーらしい。その辺が、僕には全く理解できない。僕が馬鹿なのかも知れない。

廃棄物を千年くらい管理するのは、たいした経費はかからないのかも知れない。信じられないけど。

僕の想像では、原発がこの数十年で産み出したエネルギー(電気エネルギーとして有効に使われた分)は、今後数百年から数千年の間に後始末に費やすエネルギーより小さいように思えるんだけど、どうなんだろう?詳しい人がいたら教えて欲しい。

人がまともに考えれば、原発は止まるはず、と僕は考える。でも、政府も、経産省も電力会社も、経団連も、電力労組も、原発容認の普通の人も、まともに考えてないのだろう。僕が、まともではないのかも知れない。僕には、科学的根拠がない。僕が知り得た情報から考えて、そんな気がするだけだ。少なくとも、経産省や電事連が提供する情報からは、原発が後世までも考えてプラスのエネルギーであるという結論は出て来ない。それすら、実は僕には、わからない。わからないことだらけだ。

要するに、僕は今まで僕が知り得た情報から、原発はマイナスエネルギーであるという結論を持っていて、それを反証する情報を知らない、ということだ。

反証してくれる人がいるならお願いしたいくらいだ。

話が飛んだけれど、そう、僕は反原発。でも、昨日のような集会やデモに手弁当で馳せ参じたりはしない。出店依頼されたから、商売で行く。

なぜだろう?

昨日も、いろんな方々がいた。いろんな党派性や、放射能に対する見解の相違が垣間見えた。

心底怒っている人の声も聴いた。利用してるんだろうな、と感じる声も聴いた。
間違ってる、と思う話も聴いた。コーヒー淹れながら、目が潤んだ瞬間もあった。

でも、完全に共感できない。僕には、あの集会にも、デモにも、完全には共感できないのだ。コーヒーを飲んでくれるお客さん、やはりかなり年齢層は平均的に高い。たくさんの方々に飲んでいただいた。毎年、この集会でしかお会いしないお客さんもいる。いろんな組織に属する方々なんだろう。日教組の人、共産党の人、中核派の人、市民運動の人、小さなサークルの人…。kaffa busの店頭で、コーヒーを注文してくれるひとり、ひとり。会話したり、しなかったり。ひとり、ひとりと僕の間には、なんの違和感もない。原発はいらないよね、という共感。コーヒー飲んでくれてありがとう!という感謝。

だけど、それぞれの組織の言葉、組織の旗。そういうものに共感を感じられない。

国とか、会社とか、そういう組織に抗うためには、組織は必要なんだろう、と思う。それはわかる。相手は、巨大な組織であり、さらに彼らは「仕事」なんだ。「有給」なんだ。そういう相手に抗うためには組織は必要だろう。

集会に参加された方々もひとり、ひとり、組織の一員ではあるけれど、組織と同じじゃない。それぞれの組織の中で、葛藤も、笑いもあるだろう、当たり前だけど。

ほとんどの参加者は、組織の一員と言えども、自由な自分の意志で参加しているのだと思う。日曜日に。

仕事だから、と参加してたのは、公安関係者とkaffaくらいかもしれない。

こんな僕で、本当に申し訳ありませんでした。コーヒー飲んでいただいて、本当にありがとうございました!

僕は、今後も、何かの組織に加わることはないと思いますが、kaffaとして、個人として、反原発を表現して行くつもり。あまり効果はないにしても。

教職員組合の和太鼓同好会の皆様、デモの出発と帰着の時の太鼓、とっても気持ち良かったです。ありがとうございました。

喫茶店営業(自動車)許可の更新

kaffa busの、「前橋市内」と、「前橋市、高崎市を除く群馬県内」の2つの営業許可が、3月末で5年間の期間が過ぎ、更新が必要でした。

先週から、準備を始め、今日、ほぼ無事に更新手続きが、終わりました。

思えば5年前、がらんどうのVWデリバリーバンに、あれやこれや細工して、保健所の規準に合わせて、初めての営業許可を手に入れたんだな。大変だったような気がする。

それに比べれば、更新は楽勝。まあ、規準がわかってるし、5年間ほぼ規準通り?に営業してきたんだから、ね。そんなにイジる必要もなかった。

ただ、5年前に、ペンキを塗ってくれという保健所の検査に、白木でやりたかった僕は、何とか水廻りだけの塗装でOKにしてもらった。カビを心配する係官に、「いや、これは、レッドシーダーだから、大丈夫!」とかハッタリかまして。

で、5年使いました。カビは生えました。白木が部分的に黒くなってました。カビが日々成長していたわけではないので、衛生上、僕は問題ないと思うのですが、無菌状態が好まれる昨今、いや、更新をスムーズに行いたいから、kaffa busの木部内装のほとんどにサンダーを掛け、表面を削り、塗装を施しました。

なんか、スキッとする渋い配色で塗りたいという願望はあれど、色彩センスがダメな僕は、結局、ジャンクな塗装に逃げざるを得ず、まあ、いいかって感じに。汚い元を隠さず、色で誤魔化した。カビではないでしょ?と見える。まあ、要するに、カビのように、塗ったわけだ。その上から、クリアのアクリル塗料を塗って、もう水だの溢したコーヒーなどしみ込まない。従ってカビは生えない!もう、kaffa busにカビは生えない!

まあ、とにかく、今日は更新に成功!あと5年間、kaffa busは合法です。先週もJAFのお世話になりましたが、kaffa busあと5年は走り続けます。俺があと5年もつのか?カビだらけ?

屋久島の無農薬タンカン

30年位前の話。僕は、まだ若い愛農普及会のスタッフだった。おばさんは、まだ50代だった。

おばさんの同年代の友だちが、屋久島に移住しているという話を聞いていた。

ある時から、おばさんは、その屋久島の友だちと、頻繁にやりとりをしていた。

屋久島の伝統的液糖「コタギ」を復興させたい。という思いが、屋久島の友だち、今井さんにはあったのだと思う。コタギの製法が、他の古式糖の製法と、どのように違うのか?あるいは、同じなのか?おばさんは、語ってくれていたけど、今の僕には、記憶がない。

とにかく、当時、屋久島でコタギ作りは、ほぼ絶滅していたのではないか?と思う。少なくとも、屋久島に移住した今井さんの周囲にあったのは、古い、動かない機械や道具がそのまま朽ちようとしている共同の作業小屋と、そこで、暫く前までは、コタギを作っていた老人たちの話。

たぶん、話がスタートしてから、世界で愛農普及会だけで売られてる「コタギ」が製品化されるまでには、2、3年はかかっているような気がする。

コタギは、今はない。おばさんが亡くなって、押し入れから発見された3本がうちにあるだけだ。数年間は、コタギ作られてたけど。なぜだったか?機械が壊れたのか?あるいは、若い後継者がいなかったのか?

製造年月日11 5.20とある。平成11年だと思われる。最後のコタギ。今舐めてもおいしい。いろんな味がする。

その今井さんが、中心となったグループで、無農薬のタンカンが始まった。あの当時、タンカンって、ほとんど知られてなかった。僕も知らなかった。東京では国産柑橘類は、温州みかん、八朔、甘夏、夏蜜柑、伊予柑、ネーブルくらいしか流通してなかったな。その後、タンカン、文旦、清美オレンジとか、最近は、いろんな柑橘類がありますね。そう言えば、屋久島にはポンカンもあるはず。

そう、「コタギ」とほぼ同時に、放置されかかった畑のタンカンが、おいしいのに、売れなくて、もったいないからと、愛農普及会で売り始めた。みんな、びっくりしたと思う。こんなおいしい柑橘を知らなかったから。当然、売れた。

屋久島での、タンカンをめぐる猿との抗争話。想像してみて欲しい。甘くて濃いタンカンが実るけど、そこら中に猿がいる。

そして10数年で、そこら中でタンカンが売られるようになってた。今は、知らない人は少ないんじゃないかな?

愛農普及会には、今井さん繋がりで、今でも、年に一度、二度、屋久島の無農薬タンカンがあります。濃くておいしいです。

620円/kgで20kg以内なら、450円の送料らしいです。ぜひ、http://www.愛農普及会.comにアクセスしていただき、問い合わせフォームから、問い合わせ、あるいは注文してください。

Kaffa でも、来週、販売します。ぜひ、お試しください。

全宇宙の全ての「物」は。

昔、アルバイトで、中学生相手に、塾の講師をしたことがある。2年間。

国語をやりたかったのだけど、塾長に「理科と社会をやって下さい。」と言われた。

で、必死に勉強して、理科と社会を教えてた。

僕は、小中学生の頃は、勉強しなくても成績の良い子どもだった。で、高校は、運によって進学高に合格した。そこで落ちこぼれたんだけど、理科、社会は、一応長年学んでいたはずだった。

でも、いざ中学生に教えると決まったときは、愕然とした。何にも知らなかったし、何にも理解してなかった。よくあれで塾講師になろうと思ったものだ。無茶だった。

とにかく、あの2年間ほど勉強したことはないな。別に、高度な勉強じゃない。ただ、中学生の教科書を読み、理解しようとしてた。理解すれば、それを自分の言葉で語れるからだ。

教科書を読み、参考書を読み、図鑑を読み、理解しようと頑張ってた。

毎日が発見だったな。

一番驚いたのが、中学生3年?の理科の単元を勉強していて初めて気がついたことだ。

「すべての物質は原子でできている。」基本的には、「原子は、他の種類の原子に変わらない。」「原子は増えないし、減らない。」と、教科書に書いてあったし、僕もそれは知っていたはずだった。

すべての物質は原子が集まってできている。OKだ。水素原子は、生まれてから今まで水素原子だ。これからも。鉄原子もずっと鉄原子だ。炭素原子も、酸素原子も。窒素原子も。…。數十億年?

不増不減不滅。般若心経みたいだね。

ふと、気がついた。今僕の身体を構成している原子は、もう數十億年存在していて、いろんな何かの一部だった。恐竜を構成していたし、水だったし、風だったし、植物だったし、原始人だったし、ありとあらゆるものの一部だった。

僕は、この事実をそれまで知らなかったんだ。正直に言うと。40歳近くになるまで。びっくりしたよ。みんなが、なぜ平然としているのか不思議だった。

それから、大人向けの科学雑学の本とか、ニュートンとか読んで、さらにいろいろ驚いたよ。

で、結局、これ

「全宇宙の全ての物は、僅か17種類の粒子が、僅か4種類の力の作用によって集まってできている」らしいということ。

たった4種類の力。原子から僕になるためには、たったの2種類の力しか作用してない。「力」って何だろう?ものが、結びついたり、斥ぞけあったり。

4種類の力が、たった17種類の粒子に、及ぼす作用によって、それが絡み合って、全宇宙の全ての「物」が、今有るように存在し、その「物」と「力」のさらなる相互作用が「物」を変化させる。その結果、今、このような「物」として僕がここに存在し、あなたがそこに存在し、彼が、彼女が、あそこに存在し、あれやこれやがあちらこちらに存在する。

奇跡ではないだろうか?

この奇跡的な「物」として存在しながら、人間は、4種類以外の力を使う。愛し合ったり、殺し合ったり、支配したり、抵抗したり。この力は「欲」なのかな?生きようとする力?生命力?意思の力?

「生物」は、生きようとする力を生み出す「物」かも知れないね。

「人間」には、あるいは、「動物」には、その中でも特に「哺乳類」には、「生命力」の他にも、「欲」に根ざす力があるような気がする。

もはや、理科じゃないね。

今日、この記事を見て、思い出しました。この映像、よくできているんだと思うけど、もっともっと、びっくり‼️って感じで作れるような気がするんだよね。

全ての「物」の正体は「場」から生まれて「4つの力」で動く「17の粒子」であることが分かるムービー「What Is Something?」

米沢牛

昨日は、ほんとうに久しぶりに、米沢牛を食べた。

おっぺさんちに、おっぺさんの次男の達樹ファミリーと末娘の佐和子ファミリー(旦那さんは、千葉で仕事)が、おっぺさんの誕生日を祝いに来ていて、たぶん日本一おいしいイタリアンレストラン「base」の達樹&さくらシェフのパスタの夕食にkaffa家もお呼ばれされたわけ。

おっぺさんは、焙煎人の叔母。愛農普及会の創設者である「おばさん」の妹。創設当時からおばさんを手伝い、愛農普及会のスタッフだった。40年前から、10数年間。

僕が愛農普及会スタッフになった頃、たしか、おっぺさんのお腹に達樹がいた。でっかいお腹で狭いトラックの運転席に乗り込む姿が目に浮かぶ。

達樹も、佐和子も産まれる前から、愛農普及会のたべものからできていた。

産まれてから、すぐに、おっぺさんにおんぶされて、毎週、月曜日と水曜日、愛農普及会に出勤してたし、保育園にぶち込まれる前まで、愛農普及会で遊んでた。野菜が届く月曜水曜は、おっぺさんが昼飯を作って来て、狭い倉庫でコンテナを食卓にして、みんなで食べるのが日課だった。達樹も佐和子も、離乳食から、愛農のたべものだったな。

あの頃は、愛農普及会は、小平の狭い倉庫が作業所になっていて、目の前が車道、車道を渡ると小さな公園っていう立地だった。

おとなしくおんぶされてる間は、おっぺさんがおんぶしながら作業してたし、目が覚めると、おばさんが子守しながらプリントの原稿書いたり、原稿できたら、散歩しながらコピーに行ったり、時々、僕たち若いスタッフと公園で遊んだりしながら、育った。目の前の車道にヒヤヒヤしながら。

この2人は、ほんとうに愛農普及会の子どもだった。

達樹が3歳位の時、おっぺさんは、群馬で百姓になると言って、当時、愛農普及会と取引があった玉子農家の紹介で農地を買い、群馬に引っ越した。で、何年かかけて農業委員会に認可され、正式な農家になった。

おっぺ農場として、愛農普及会の生産者になったわけだ。

達樹は、中学2年まで群馬で育ち、野球にのめり込み、高校生時代は、東京の強豪校で甲子園を目指した。彼が幼い頃は、僕や義兄やS君が、愛農倉庫前の公園でキャッチボールで鍛え上げた?のだ。

甲子園は、予選決勝で敗れ、出場はできなかった。その後、どうするんかな?と思ってたら、高校卒業後、いきなりイタリアに行って、料理の修行を始めた。4、5年はいたのかな?料理修行しながら、イタリアのプロ野球リーグの外国人選手枠で、一応プロ野球選手やってたりして、驚いたな。

帰国して、イタリアで出会った、さくらさんと結婚して、さくらさんの地元の木祖村で小さなイタリアンレストランをやってる。それが、「base」、バーゼだ。日本一おいしいイタリアンレストランだと、思っている。

おばさんが生きていた頃、時々吉祥寺に来ては、おばさんと味の話してた。おばさんが亡くなって、一番悲しんだのは、たぶん、達樹だ。

「たべものの味について、ほんとうに分かり合えるのは、おばさんしか居なかった。」って言ってた。

愛農普及会は、おばさんの味覚によってできてた。僕もおばさんと長年付き合ったけど、結局、おばさんの味のストライクゾーンを理解はしてない。すごい狭いんである。それを理解してるのは、たぶん、達樹だけだろうと思う。焙煎人も、かなりおばさん的だとは思うんだけど、ゾーンの境界線がない感じ。薄らぼんやりした境界な感じかな。

そんな達樹が料理人として生きている。もう2歳の女の子の父親だ。愛農普及会の子どもが親になって、料理人である。

今や、愛農普及会にとっては、欠かすことのできないアドバイザーであり、食材を買ってくれるお客さんである。

昨日も、「秋場さんの玉ねぎは、いいよね。」って言ってた。僕も、焙煎人も、そう思って使ってたんだけど、何となくなんだよね。達樹にそう言われると、「あっ、やっぱり?そうだよね!」と嬉しくなる。自信を持って人に勧められる。愛農普及会の秋場さんの小玉玉ねぎは、最高ですよ、みなさん。

ああ、米沢牛の話なんだな。

昨日、達樹が、おっぺさんちの冷凍庫に眠ってた愛農の米沢牛のモモブロックと、肩ローススライスを、囲炉裏の炭火で焼いてくれた。

おばさんが米沢出身で、米沢の佐藤さんの米沢牛を40年前から、扱ってた。僕は、愛農普及会を知らなければ、米沢牛なんて知らなかったと思う。今でこそ、米沢牛は、ブランドとして確立されてるけど、30年前は、一般的ではなかったからね。

僕が愛農やってた頃は、愛農では、米沢牛を毎月第4週に注文とってた。切り出し1kgで1500円だったな。サーロイン300gで2000円とか。安かったなあ。

おばさんに連れられて、佐藤さんを訪ねた時、牛舎で、生まれて初めて、牛に舐められた。「ああ、これが牛タンなんだな。」と思った。生きている牛に舐められて、嬉しくなった直後、冷蔵庫を覗かせてもらったら、牛の頭がぶら下がってて、ちょっとショックだったなあ。

10年位前に、佐藤さんから、「今まで、かなみっつぁんだから、この値段で出してたけど、さすがにもう無理なんで値上げさせて。」って言われて、かなり高くなった。

それでも、一般的な米沢牛の価格と比べると、かなり安いみたい。だけど、kaffa家の家計的には、今や年に一度くらいの贅沢食材になってる。

それが、昨日、ラッキーにも食べられたわけ。達樹が囲炉裏の前に座り込み、炭火の上で、おっぺさんのネギと肉を焼いてくれ、醤油つけて食べるだけなんだけど、やはり、おいしい!

息子と娘も、それはもう、うまそうに食ってた。思わず動画撮ったんだけど、あまりにお下品なので、静止画にしました。

さっき、これ書いてる時、達樹が木祖村への帰り際、うちに寄ってくれて、コーヒー豆買ってくれたんだけど、ちょっと話をした。やはり、おばさんの話になったな。水の話もした。最近、バーゼの近所の清水牧場さんの湧き水に出会ったと。今は、秋場さんの小さい玉ねぎを弱火で、色をつけないように炒めて、白いスープにするのにハマっているそうなんだが、これをその水で作ってみると、また格段に違うんだと。うちのコーヒーもその水で淹れるとおいしいんだと。達樹だって、料理に水は重要だと知らなかったわけじゃない。だけど、ただ何と無く知ることと、五臓六腑身体ごと、存在ごと識るのとは違うだろう。たぶん、達樹の中には、水に対する新しい何かが生まれたんだろう。

水はコーヒーにとって重要。それはわかっているつもりだけど、僕にはまだまだ、深〜い認識にはなってないな。コーヒー屋としての課題のひとつだな。

達樹も日々、アップデートしてる。よりナチュラルに。よりシンプルに。

おばさん、きっと、にこにこしているだろう、天国があるとしたら。

base

愛農普及会

 

愛農普及会2

愛農普及会のwebサイトを作ってみました。まだまだコンテンツは少ないですが、よろしくお願いします。

それに先立って、愛農普及会Facebookページも作ってみたんだけど、何なんでしょうか?編集がうまくできません。たぶん、Facebook側がおかしいのだと思うんだけど、なにぶん、こちらも素人なんで、何が問題なのか、わからないことの連続で、ストレスが溜まります。

それに比べて、Word Pressは、素晴らしいです。できないことは、できないけど、それは仕方ない。ストレスが皆無。

愛農普及会、今は、宅配便利用もあるから、東京じゃない方も、お試しに、食材注文してみてね。

kaffaのオススメは、豚肉(島豚)、鶏肉。これらの肉は、まあ、高級肉なんで、値段は高いけど、安い豚や鶏の何倍もの時間と手間をかけて肥育されてるんでね。おいしいですよ。

米澤牛も、米澤牛としては安いんだろうけど、ちょっとkaffaには、年1回くらいしか手がでないけど、おいしいですよ。間違いなく。

佐渡の干し椎茸、山形県高畠の興農舎のコシヒカリも、やはり美味い。醤油、味噌、油なんかも、流行りの自然食品店みたいにあれこれ多種類あるわけじゃないんだけど、リーズナブルで、飽きなくて、おいしいと感じられる品々だと思います。

その時々で、「これはオススメ!」みたいなものもあるはずなので、お気軽に問い合わせしてみてください。

愛農普及会のwebサイト

愛農普及会 その1

愛農普及会は、消費者団体である。拠点が吉祥寺にある。戦前建築の古い、趣がある民家である。

40年前に、おばさん(義母)によって設立された。それがなかったら、実は、kaffaは、存在してないはずだ。

おばさんは、防衛庁に勤める研究者であったが、庁内の事なかれ主義の空気、「とにかく定年まで無事にのんびり仕事して、年金生活に入ることばかりが大事な上司や同僚たちに呆れて」たと、聞いたことがある。40歳になったら、その仕事を辞めて、何かしらやりがいのあることを始めようと思っていた、と聞いた。

そして、その通りにした。

おばさんは、山形県の米沢市で生まれた。そして、父親の仕事(印刷所経営)で、南京で暮らした。戦争が終わり、父母は、地元の人たちに請われ、南京に残るつもりだったのだけど、まだ十代の義母が日本に帰ると主張し、子どもである義母が帰るんなら、仕方がない、と一家で帰国した、と義祖父から聞いた。

郷里の米沢に帰り、高校生となり、その後、東京の大学で化学を学んだ。卒業後、防衛庁に入り、自衛艦に使う塗料の研究をしていたそうだ。大学の同窓の義父と結婚し、義父の実家の庭に、自ら設計した小さな家を建て、仕事しながら、子ども4人を育てた。

その義父の実家が、今の愛農普及会の作業所であり、庭に建つ小さな家が、kaffa吉祥寺である。

おばさんは、東京に来てから、ずっと、大根だとか、白菜だとかいった普通のたべものが、おいしいと感じられず、不思議だった。

40歳になろうか、というある時、ある「みかん」に出会った。目が覚めるようだった。それが、「愛農会」という農業者の団体の会員のみかんだった。

おばさんは、そのみかんを数十ケース取り寄せ、知り合いを中心に、勝手に、普及し始めた。40年前の話だ。今のように、全国翌日配達なんて想像すらできない時代。国鉄の貨物列車。届いた時には、かなり腐っているような時代。

それがきっかけとなり、東京で、消費者団体の先駆けの活動の輪の中で、紆余曲折し、おばさん独自の「愛農普及会」を作った。今、おばさんが残した古い手書きの資料を見ると、当時、まだ生協などの共同購入の宅配すら、なかった(たぶん)時代の先駆けの人たちの名前が見える。ほとんどは、男性だ。何人かの男性と組んで活動したこともある。でも、結局、独立した。「なんか、男の人は、結局、事業になっちゃうのよね。」って言ってた。おばさんは、「主婦として」に、こだわってた。そして、味覚。おいしいこと。売れて、かつ、なんとなくそれらしくても、ダメ。

作った人のこころが伝わること。
おいしいと感じられること。

それは、当然、高度成長期の化学肥料や農薬を野放図に使い生産量を増やすことを目的とした農産物ではなかったし、有機栽培なら何でも良いわけではなかった。

今のように、オーガニック、自然食品なんてジャンルが、全ての人に知られている時代ではなかったけど、日本中の各地に、個人で、あるいは小さなグループで、そんな農業者がいたし、それを求める消費者もいた。

おばさんは、妹たちの協力のもと、自ら、生産者を訪ね、自分がおいしいと感じられる農産物を直接買い、いろんな人たちに電話して売り込み、パワステなんてない時代の2トントラックに積み、ハンドルを握り、都内に配り歩いた。

僕は、22歳前だったか、大学3年の時、縁があり、愛農普及会でバイトとして働き始め、義母に出会った。愛農普及会が創設されて10年と少しの頃だったかな。おばさんは、そうか、ちょうど今の僕くらいの歳だったんだな。タバコなんか吸ってたな。若くて、ナイーブな僕は、おばさんに出会えなければ、どうなっていたか、本当にわからない。

その頃には、愛農普及会もかなり形が整っていて、都内と埼玉の一部に、大小80グループ位の共同購入ポストがあり、毎週、月曜日と水曜日に野菜類が届き、それを注文に応じて、量り、ダンボール箱に詰め、トラック2台に積み、合計6コースの配送コースで配りながら、会員のおばさんたちに、農家や産地の話をしたり、注文以上に来ちゃった野菜を押し売り?したり、上がり込んでお茶とお菓子などご馳走になったり、ポストによっては、毎週ランチが用意されていたり、といった感じだった。今のように、とにかく急げ、みたいな宅配から考えると、信じられない時代かも知れない。

配送が終わると、義母のご飯が待っていたし、月曜、水曜には、義母の妹のおっぺさんのご飯があった。

愛農普及会スタッフになる前は、何だって食べていた。空腹が満たされればよし、みたいな。

愛農の毎日のごはん。別に特別でも何でもないのだけど、もちろん、食材は、愛農の食材。おいしかった。それが数ヶ月続いた時、ファミレスに行った。その時に初めてびっくりした。ものすごく、おいしくなかったんだよね。

僕は、今でも、ファミレスやすき家でも食べられるし、カップヌードルも時々食べる。でも、それは何と言うか、おいしいと感じられるものでもなく、作った人のこころが感じられるものでもない。滋養はないんだよね。『いのち』を養うたべものじゃない。

義母が、10数年前に書いた言葉がある。

父母から頂いた『いのち』は、まさしく天然のものです。
その『いのち』を養うたべものは、天然でなければなりません。
生きることは、天然の内に一体となることです。

作った人のこころが伝わること。
おいしいと感じられること。
あきずに使えること。

毎週金曜日は、お昼前におばさんの家(今のkaffa吉祥寺)に集合して、1週間の集金を数えて、銀行さんを待つ。お昼ご飯を食べ、電話で翌週の注文を取り、晩御飯を食べ、注文を集計して、生産者さんに発注する。終わるのは、夜中。のんびり注文の電話を待ちながら、操体してもらったり、テルミーしてもらったり、原子について教えてもらったり。

高校生の末娘さんが帰って来て、「ただいま〜」と言い、二階に消える。その子が焙煎人。当時あれほどおばさんちでご飯食べてたのに、その子が食卓に居た記憶はない。帰って来て、顔みせてそのまま二階に行って寝てたみたい。何食ってたんだろ?

今、焙煎人から聞いたんだけど、おばさん、割と早く防衛庁は辞めたみたい。愛農を始める前にも、習字の先生やってたり、そう言えば、おばさんがおいしいと思える豚肉の普及活動とか、やってたと聞いたような気がする。

以上は、僕が聞いたと思う話。事実とは微妙に違っているかも、です。

僕が愛農スタッフだったのは、出たり復帰したりで、足かけ10年弱かな。おばさんとその妹たち、そして、その時々で、若い連中が出たり入ったり。僕が入ったのも、手伝ってたS君が、オーストラリアにワーキングホリデーで一年行くから、代わりを探してるって話だったし、一緒に働いてたA君は、直後に就職して愛農から卒業し、A君に代わり、おばさんの次男、ちゅーき(現在の代表)が何度目かにスタッフ入りし、時々高橋君(ちゅーきとS君の親友で、現在の愛農を支えるスタッフ)が手伝いに入ったり、S君が帰国して復帰したら、ちゅーきは、ロンドンに行っちゃったり、僕も、インドに行く予定だったのに、S君にそそのかされてオーストラリアにワーキングホリデーなんかに行っちゃったり…。常時、若い誰かが2人くらい居て、面白かったなあ。夜には、ちゅーきや、高橋くんや、S君や、おばさんの長女の純ちゃんと遊んだり。その面々が、今や、おじさんとおばさんになり、それでも、なんだかんだ愛農に絡んでいる。

僕は、愛農とコーヒー屋の二足の草鞋だった頃もあるけど、結局、群馬に越して来て、愛農の仕事からは離れた。

おばさんとちゅーきとS君が、中心で暫くやってた。S君が独立して、高橋くんが入った。そして、おばさんが亡くなった。

愛農の仕事。扱う食材。生産者さんとの繋がり。日々の業務。地味だけど必要な雑務。配送。受注。集計。発注。会計。今は、高橋くんとちゅーきが、ほぼ2人だけで回してる。むかしのような、余裕は見えない。あの20代の頃の、笑いながらの仕事じゃない。

でも、まだ、おばさんの魂はそこにあり、それを、次の世代にも繫いでいけるはずだと思う。笑いながら、それが可能だと思う。

 

愛農普及会

 

太鼓

昨日は、週に一度の、子どもたちの太鼓の練習日でした。

3か月ほど前に、友だちの娘さんがやり始めて、その友だちが、「太鼓やりたくない?」って誘ってくれて。佐渡島で家族ごと鼓童ファンになっているkaffa家も、お試し参加させて頂いていた。

「上州赤城風神太鼓」という太鼓グループが大胡にあって、毎週金曜日の夜、子どもグループが練習してる。

僕は親の勝手な希望としては、我が子が音楽家になって欲しいと思っている。別に、有名音楽家じゃなくてもいい。太鼓抱えて世界を旅する大道芸人とか、憧れるんである。音楽家じゃなくても、何らかのアーティストであれば、嬉しい。

昔、アムステルダムで、パントマイムの路上パフォーマンスで生活してる人と友だちになった。彼は、フィンランド人だが、そのパフォーマンスがあれば、世界中、行きたいところへは、どこにでも行けただろう。リッチとは言えないけど、自由で平和で、優しかった。アムステルダムには、彼の他にも、たくさんの路上アーティストがいた。みんなその日暮らしで楽しそうで、不安なんかないように思えたな。今でも、そうなのかな?世界はあの頃とは随分変わってしまったような気がするけど、僕が変わったのかな?今でも、そんな場所、そんな人たちが、その日暮らしを楽しんでいる場所があるのかな?

路上アーティストとして生活を最愛の我が子に望むのも、どーかと思うけど、まあ、僕の反面教師的存在のおかげで、たぶん、我が子はそうはならないだろう、という変な安心感があったりもする。

何の話かよくわからないな。

太鼓の話。

息子か、娘が、太鼓叩けて、将来、鼓童のメンバーになる、という親の星一徹的妄想から、その上州赤城風神太鼓に入門させたわけです。子どもたちも、やりたいと言ってたし。もしかしたら、天才かも知れないじゃん。

それで、この3ヵ月、毎週休まず、連れて行って、見学してた。見学も決して退屈ではなくて、生の太鼓の音に包まれて結構好きなんです。昔、長男のスイミングの付き添い見学は、退屈だったけど。

まあ、我が子が太鼓の天才ではないことは、わかりましたよ。

初めての日だったかな。先生の言ったようにできてない我が子を見て、思わず、しゃしゃり出て、後ろから子どもの手をとり、叩いてみたりして、先生から、「まあ、まあ、お父さんは、そんなに、のめり込まなくていいから。」とか、たしなめられたりしました。

それからは、なるべく、目立たぬように見学に徹していたんです。まあ、送り迎えだけではなく、両親が毎週欠かさず最初から最後まで居座っているのは、うちだけだから、目立つんですけど。とりあえず、おとなしく見学してた。

ひと月ほど前、大人メンバーであるお母さんから「休憩中は、太鼓叩いてみてもいいんですよ。」との言葉を笑顔で頂き、もう駄目です。休憩中に、子どものバチを奪い、大太鼓、中くらいの太鼓、叩いてみました。初めて。快感。嬉しくって。でも、子どもが凄い嫌がる。恥ずかしいらしい。なかなかバチを貸してくれない。奪って、ドンドコやると、すぐに取り返される。

そんなことを休憩中に、ここひと月くらいやってた。

そしたら、昨日。何故か子どもメンバーの出席がいつもよりかなり少なかった。インフルエンザなのかな?

先生が「お父さん、お母さん、やらない?」って声をかけてくれたんだ!たぶん、かわいそうに思ってくれたんだと思う。「いいんですか?やったあ!」もう僕は、大喜び。初めて、太鼓のたたき方を教えてもらうことになった。焙煎人も、誘ってくれた友だちも一緒にね。

バチを借り、太鼓の前に立つ。子どもたちへの教えを聞いていたから、わかってたつもりだけど、いざ立ち、構えてみると、ちょっと違うらしい。後ろで見ていたお母さんメンバーから指導が入る。

準備運動から、姿勢。構え。基本練習。基本的なリズム。ドンドコドンドコから始まって、ドンドンドコドコ、スッドンスッドン、ドドンコドンドン。ちょっとだけかなと思ってたら、これがたぶん、40分くらい。汗だくになり、息も苦しい。足腰ガタガタ。終わった時は、正直、ほっとしました。

でも、とても嬉しかった!難しさもわかった。できてるつもりでもできてない。左手が鈍い。難しさはあるけど、太鼓を自分で叩いて音を出す、みんなで同じリズムの中に在るその楽しさ。

クソ寒い中で、こんなに汗をかくんだね。終わって、見学席にもどる時、まともに歩けなかった。

あー、でも本当に楽しかった!僕も天才じゃなかったけどね。上州赤城風神太鼓、ありがとうございます!大人チームもあって、希望すれば僕自身も入門できるんだけど、子どもチームとは練習日が違う上に、かなりレベルが高そうで、やるからにはかなり練習しないとだし、練習はたぶん、ほとんどしないだろうし。
できれば、子どもチームに入って、子どもとして、遊び半分でやりたいなあ。

お試し期間は、終わり。うちの子2人は、正式にメンバーになりました。本人たち、親の期待するほどやる気はないみたいだけど、先生が、言うには、休まず通ってれば、叩けるようになるって。

子どもチームの練習にも、親子でメンバーのお母さんたちと、若い大人のお兄さんたちも参加してるんだけど、その二十歳前後のお兄さんたち、小さい頃から、風神太鼓のメンバーだそうで、昨日も、休憩中、先生と3人くらいで即興のセッションやってて、とても羨ましかった。ミュージシャンたちが、セッションして、そこに、ヒョイッと音楽で参加するなんて、世の中にこれほど羨ましいことってないです!

フジロック!

kaffaが毎年出店する大きなイベントと言えば、夏休み最後を飾る佐渡島のアースセレブレーション。佐渡島の風土と人々と鼓童の太鼓の響きが作り出す空気に魅了されまくり、8年連続。3日間のイベント期間のみならず、年々佐渡島滞在日数が延びている。もう、ただのイベント出店ではなく、kaffaにとって、一年間で最も大切なまつり。知らんけどリオデジャネイロ人にとってのカーニバルみたいなものかも。とてつもなく疲れるんだけど、本番では時々泣きそうになり、商売投げ出したくなったりもするんだけど、終わると別の意味で泣きそうになり、来年も来るぞ!と思わせてくれる。翌日の小木港、鼓童による送り太鼓で、まつりが終わったことを完全に識る。あー、また1年頑張って、また来よう、と思う。ものすごい感謝の気持ちと共に。特定の対象がない感謝の気持ちだ。地球祝祭。

あー、書いてると、また佐渡島のイメージが蘇り、行きたくなる。

アースセレブレーションについて書こうとしたんじゃない。

フジロックだ。
僕は、フェスというものに、客として行ったことはない。結婚して以来、NO MUSIC (後ろに続くNO LIFE がないやつ)をモットーとする焙煎人に矯正されてしまったのだ。

でも、フェス出店は大好き。アースセレブレーション以外には、地元群馬で数年前にあったMAROYAKA FESっていうフェスしか出店したことないけど、あの、朝から晩まで音楽が聞こえ、お客さんがハッピーな感じが、大好き。

で、マロヤカフェス以来、フェス出店を何度か企てたことはあるんだけど、出たいなあ、と思うフェスは、大抵、出店者の公募がなかったり、kaffaが死にそうになりながらコーヒー淹れ続けたとしても、赤字になりかねない出店料だったりして、諦めていた。一杯一杯ドリップして400円位のコーヒーでは、数万円から数十万円の出店料は払えないのだ。

で、フジロックだ。苗場だから遠くはない。去年、東京でのイベントに一緒に出店していたコーヒー屋さんが、数年前にフジロックに出た話を聞いて、出てみたいねーなんて焙煎人と話してて、調べてみたら、締め切り過ぎてた。

で、今年。募集が始まっている。締め切りは3月。出店は狭き門。審査に合格してフジロックに出店できたらスゴイらしい。出店料も、スゴイけど、売り上げもスゴイらしい。72時間連続ドリップ。たぶん、死ねるレベルに疲れるだろうけど、持久力より瞬発力の僕には何とかなるような気もして。いや、これは、持久力だな…。助っ人が必要だ。

7月はフジロック。8月はアースセレブレーション。っていいなあ、と思ってしまった。

今日、問い合わせしてみたら、コーヒーだけじゃダメみたい。「フェスごはん」なんだよ。何か食事を提供しなければダメみたい。そういえば、東京で会ったコーヒー屋さんも、コーヒーとホットドッグ屋さんだったなあ。

うーん、どうしようかな?何か作るかな?そこまでしてフジロックに出店したいのかな?なんとか審査までに(試食審査もあり、面接もある!)おいしいフェスごはんを作り出したとして、それで合格できる保証は全然ない。だいたい、kaffaは、コーヒー屋としてフジロックに出店してみたいわけで、おいしいフェスごはん屋になりたいか?と問われると、うーん、どうなんかな?

どうしようかな?応募するかどうか、ちょっと、暫く考えてみます。というのが、今日のところ。

フジロック。お祭り商売、ハッピーな商売として参加してみたいんだけどな。